遠別農業の開拓

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開拓の歴史
明治29年、遠別原野等が植民地に選定され翌30年の春から入植者が入ってきた。越前団体、愛知団体、尾張団体、秋田,千葉から入植者が遠別原野に広がって行った。
 入植当時の遠別は、北海道の他の多くの植民地と同じく、見渡す限りの原始林が空を覆い、地面を笹や草が埋め尽くしていた。入植者の最初の仕事は木を伐採し土地を切り拓くことであった。密林の開墾は困難をきわめた。大きなマサカリで傷をつけて枯らしたり、大木の根元に木を寄せかけて火の力で燃え切らせて倒したりするなど、時間のかかる作業であった。またヒグマや害虫などにも悩まされる日々が続く。伐採が終わると今度は土地の開墾、そして耕作と進んでいく。木を切り、笹を刈るとすぐ鍬で削って畝を作り、南瓜、馬鈴薯、小豆、粟など少しずつ蒔いたという。しかし、播種期の遅れと秋霜とが重なり、入植当初は十分な生育を見なかった。唯一収穫に結びついたのは馬鈴薯で、入植者の大切な主食となった。
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開基以後、遠別の農業は麦や豆といった畑作が中心であった。寒冷な気候という条件に加えて、明治政府や開拓使などは畑作を奨励していたからでもあった。しかしほとんどが本州からの入植者たちは、開拓地で畑作に打ち込みながらも「この地でなんとか米をつくってみたい」という夢を捨てなかった。入植後すぐに水稲栽培を試みた者もいたが、なかなか成果には結びつかなかったようだ。明治34年、本原野24号において南山仁太郎が先ず福井県産の種子による苗植法で試作、これは芳しくなかったものの、2年後には上川産の種子で植付けをし、かなりの収穫を得たという。これが遠別での稲作の発祥となった。「稲作北限のまち」の歩みは、ここから始まったのである。
 彼に倣って各地域で水田熱が起こり、更に土功組合の設立(大正10年)でかんがい溝の竣工などで急速に水稲栽培が本格化した。
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水稲経営の転換
日本最北端の稲作の限界地といわれる厳しい自然条件下においても、稲作の経営は拡大の一途をたどり、昭和44年には1,280haの作付けを行う稲作専業地域となった。しかし、水田利用再編対策によりこれまでの多収重点の稲作から良質米の生産が一層重視されるようになった。当町は「しおかり」の生産が主体であったため、消流生が乏しく稲作経営は厳しくなってきた。農協・生産者の協議により当地帯に適合性の強いもち米(おんねもち)の生産拡大を決定した。良質菜もち米を安定的に生産・出荷するため生産組合が設立された。水稲農家の92%が組合に参加した。
 昭和58年9月に全国農業協同組合連合会よりもち米生産団地の指定を受ける。


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by masakinono | 2006-09-19 15:13 | Comments(1)
Commented by yokuya2006 at 2006-09-21 21:47
なるほど、そんな歴史があったわけだ。
開拓者の方々の歴史を感じさせる記事ですね。
私も、屯田兵の子孫として、農業奉公せねばと思うことです。
詳しく解説していただいて有難うございました。
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